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高岡ふるさと応援隊会員No.0001のブログ

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10年間の反省 その③

2014年4月、当時22歳。
無職となって高岡にUターンしました。




「高岡を盛り上げたい」「高岡の活性化に貢献したい」などということを、高校生の頃から繰り返し述べていましたが、結局のところ「地域活性化」とは何なのかよく分からないまま生きていました。

あまりにも漠然としたテーマなので、意外と陥りやすい罠なのかもしれません。
学生時代のネット上での発信活動、卒業・Uターン後の地域活動参加は、今思えば「よくわからんけど、色々やっているうちに答えが出るだろう」「とりあえず色々参加して現場を見れば、いずれ自分のやりたいことが見つかるだろう」くらいのノリでした。
「自分探しの旅」みたいなやつです。

特に卒業後の数年は、今考えるとびっくりするくらい色んなところに足を運び、学びや経験を得ようとしておりました。
おかげで様々な経験、そして多くの出会いがありましたが、肝心の「地域活性化とは何か、自分は何をしたいのか」という答えを得ることはありませんでした。

それは何故か。
全てにおいて、受け身の姿勢であったことかなと思います。
特に「自分で考えて行動する」ということが欠けていた。
それなくして、ただ参加しても、得られることは少なかったなとつくづく思います。

なんか色々参加していれば、経験に基づいて自然と知識がついて、いずれいい考えが浮かぶだろう、という姿勢が全くダメだったのです。
そんな姿勢では成長もできなければ、現場で役にも立ちません。




そして、最終的に得た結論。
それは既に学生時代、耳にしていたことでした。

大学再受験という無謀なことをしていた際、都内の個人指導塾に通っておりましたが、
その先生にはっきり言われたことがありました。
「地域活性化は経済発展だ」と。

この時、「地域活性化とは何か」と聞かれて曖昧な答えしかできず、一蹴されてしまったのがとても悔しかったことを覚えております。
しかし、当時「経済発展」と言われてもピンと来なかったのも正直なところ。
こんな的を得たアドバイスをこんな早い時点でいただいていたのに、全く活かせなかったのが今ではもっと悔しいですね・・・。
(ちなみにこの先生は地域活性化の専門家でも何でもありません)
「地域の経済発展なんて、自分にできることではない」と思っていたのが大きいでしょう。

したがって、その後約5年程、「自分探しの旅」を続けることになります。







~人生初めての地域活性化プロジェクトへの参加~

Uターンした2014年春から、とある地域活性化プロジェクトの会議に出席。秋頃からはイベント手伝い(物販等)で県内外に足を運ぶようになりました。
「〇〇で地域を盛り上げよう」というようなプロジェクトは、よくあると思います。飲食だったり、芸能だったり。その部類のものです。
元々、全く興味のない分野だったのですが、当時は興味分野関係なく色んな「ご当地〇〇」を応援しており、学生時代の2013年にプロジェクトにお声かけいただきました。
初めて高岡の活性化プロジェクトに参加させていただくことになり、当初はものすごく張り切っていました。

しかし、ここには書けないような様々な事情もあり、嫌気を差すこと、ひどい時には傷つけられるようなこともあったので、2016年夏にプロジェクトを離れることとなりました。
辞めた直後は感情的なことしか思いませんでしたが、4年も経てばさすがに冷静に見つめられるようになります。

諸々の話は抜きにして、自分自身の問題点と、「地域活性化プロジェクト」特有の問題点を振り返れば、
自分自身に関しては先述の通り基本「受け身姿勢」で、単なるイベントスタッフの一員としてしか役に立たなかったこと。

そして、「地域活性化プロジェクト」特有の問題点としては、典型的な「補助金事業」であったこと。
当時は私も「地域で稼ぐ」という目線は全く持っておらず、「地域活性化=補助金事業」が当たり前と思っていました。
しかし、事業として自立していないと、継続しない。
会議に出る度に「金がないから何もできない」みたいな話があり、補助金も年々額が減り、私が離れた後には補助金が打ち切られました。
その後も細々と継続しておりますが、かつてのような勢いは全くなくなりました。

また、興味分野でないことへの参加は、今思えば慎重になるべきでした。
しかも、このプロジェクトに関しては、私だけでなくその分野に強い人がほとんどいませんでした。
これも地域活性化プロジェクトには、ありがちな話かもしれません。
やはり餅は餅屋。「地域活性化がしたい」という名目で、興味分野、もっと言えば専門分野や得意分野でないことに安易に手を出すのは、よくないなと。素人がやると中途半端なものしか出来上がらないので。
これだけでなく、この後いくつか参加したプロジェクトで、そう感じました。



・・・しかし、これに気づいた時、自分は本当に弱いなと思ってしまいました。
いかんせん「地域活性化」という漠然としたテーマのみを「興味分野」としていた人生なので、それ以外の興味分野は「競馬」くらいしかありません(笑)
また、「専門分野」「得意分野」と呼べるものも、あまりないのです。
こういう目線が早くからあれば、何か役立つスキルを身に着けることもできたのに。
何もない人間は、はっきり言って地域活性化分野でも役立たずです。

・・・今から高岡に競馬バーでも作るか、なんて(笑)





~観光ボランティアガイドやまたちばな(入会当初の話)~

無職となって高岡にUターンし、「これからどうしていこうか・・・」と考えていた頃。
「とりあえず高岡の観光地を学び直そう」と思い、観光協会主催の「観光ボランティアガイド養成講座」に参加。
市内5つの観光ボランティアガイド団体の案内で、観光地(高岡古城公園、高岡大仏、山町筋、金屋町、瑞龍寺、伏木)を学習する講座です。

高岡の観光地については、学生時代までにある程度は知っていたつもりですが(荻布寮祭で、高岡の観光地を紹介する動画を作ったこともあったので)、実際にガイドさんの案内を受けてみると、まだまだ知らない魅力がたくさんあって、楽しく学ぶことができました。
(また、この講座の参加により、高岡市広報誌『たかおか市民と市政』2014年7月号の特集に、びっくりするくらい大きく取り上げていただきました。当時金髪の無職・・・)

そして、この講座の最終目的は、観光ボランティアガイド団体の会員増ですが・・・。
当時の私はガイド団体に入るつもりはなく、ただ勉強するだけの予定でした。
(実際、この時の私のように、勉強目的のみの参加者が多いのが今でも課題です・・・)

しかし、5団体のうち、高岡古城公園・高岡大仏担当の「やまたちばな」からお誘いを受け、断れない性格の私は9月の定例会に出席。そのまま入会という流れになりました。
定年退職後の入会が多い観光ボランティアガイド団体に、22歳で入会するというのは異例中の異例でした。

ここでも「受け身姿勢」を存分発揮・・・。
元々積極的な入会でなかったのも大きいですが、何よりも人前で喋るのが苦手な私が、観光ガイドをするなんて想像もできませんでした。
ただ定例会に参加するだけの人間として、1~2年程を過ごし・・・。
このままではいけないと思い始め、2016年頃から、ガイド時間の短い高岡大仏にまず挑戦。
その後、2017年頃から高岡古城公園も少しずつ挑戦するようになり、ようやく一人で公園ガイドができるようになったのは、2018年です。
なので、ガイドに関してはまだまだ素人です。
今思えば、あまりにも時間がかかりすぎました。こんな奴を温かく見守ってくださった先輩方にも感謝です。

まさかその後すぐに代表になるなんて、夢にも思いませんでしたが、代表になった話は後述します。

ちなみに、このまま無職ではいけないと思い、2015年4月から2年間、高岡市役所建築住宅課の非常勤職員として勤務。
喋ることへの苦手意識は、ここでの窓口業務や電話業務である程度克服していたのが大きいです。





~(公社)高岡青年会議所(高岡JC)~

大学4年だった2013年、まちづくり事業「魅力ある高岡フォーラム」にパネリストとして参加させていただいたご縁で、2015年に(公社)高岡青年会議所の賛助会員として入会。
当時23歳のフリーター(市役所勤務とは言え、非正規雇用)でした。
今思えば、高岡の青年経済人として活躍される皆様と同じ団体に、賛助会員とは言えあんな中途半端な人間がよく入れたものです。
でも、40歳で卒業の団体にこんな早くに関われたことで、より多くの出会いと経験ができたと思います。そして、2032年まであるので、これからも・・・。
人との出会いに関しては、高岡JCと後述の「タカポケ」が特に幅広いと感じます。

JCはいわゆる「単年度制」で、1年で役員も委員会も全て交代。
毎年違った事業を経験できるのが、特に楽しいです。
その年の個人的な状況によって参加の状況が大きく変わりますが・・・。気がつけば今年で6年目。
簡単に振り返ります。


2015年度(1年目)アカデミー拡大特別委員会
新入会員として、JCのいろはを学ぶ段階。
また、新入会員を中心に、12月度例会の企画・運営を行いました。
(JCは1月始まり12月終わりの年度単位なので、12月が年度最終例会。年間の活動報告や、卒業式、次年度理事長への引継ぎ式などが行われる重要な例会)

2016年度(2年目)次世代育成実践委員会
高岡JC3政策「まちづくり」「ひとづくり」「みらいづくり」のうち、青少年育成を担う「みらいづくり」の委員会。
賛助会員ですが、2年目として委員会「幹事」と同等の活躍をさせていただきました。
委員会として、「子育て」をテーマとした5月度オープン例会、夏休みの小学生を対象とした事業「新幹線でGo!『未来高岡かがやき教室』~僕らの夢は無限大~」を運営。
(志村けんさんが亡くなった今、この事業で「バカ殿」の舞台を見に行ったのを思い出します)
また、18歳選挙権となった年で、市内2高校で有権者教育事業を実施。

2017年度(3年目)まちづくり実践委員会
大仏の事業等に関わり始めたため、ちょっと力が抜け始めてきた頃・・・。
大伴家持生誕1300年ということもあり、「万葉」をテーマとした4月度オープン例会、
10月の高岡万葉まつりと並行して開催された「高岡かざぐるまアート2017」を担当。

2018年度(4年目)まちづくり実践委員会
大仏事業の本格化と挫折があり、完全に幽霊部員化していた頃。
「市民討論会」として開催した4月度オープン例会と、「たかおかARスタンプラリー」事業を担当。

2019年度(5年目)まちづくり委員会
さすがに3年連続のまちづくり系委員会は・・・と思っていましたが、「開町410年」というワードを聞いて心が動きました。
また、時間に余裕ができたことと、前年までの色々で心変わりしたことで、3年ぶりに積極的に参加。
「開町410年」をテーマとした4月度オープン例会、開町410年事業「高岡城下町フェスタ2019」を担当。

2020年度(6年目)総務委員会
4年連続はよくないと思い、今年は総務委員会へ。
総会や理事会の設えを担当する他、早速新年祝賀会の担当となりました。
昨秋から今年3月の退職まで仕事が夜遅くなり、再び幽霊部員に・・・。
今年は会の創立50周年と、「全国城下町シンポジウム」という大事な年でしたが、新型コロナウイルスの影響で、全ての事業がいったんリセットの状態となっています。


「賛助会員」という甘えが出る時もあり、やはり受け身姿勢に陥りがちなのですが、
JCで特に悩んだのは、まちづくり系委員会に3年連続所属したのに、何のアイディアも出せなかったこと。
「アイディア」もすごく苦手です。若い若いと言われますが、頭がものすごく固いんだろうなと。

そして、今後正会員になるかどうかは・・・金銭等の問題もあるので、様子見です(笑)




~高岡4D-ポケット(タカポケ)~

24歳となった2016年は、本当にあちこち足を運ぶようになります。

神奈川県鎌倉市の「カマコン」を基としたプロジェクトが、2016年2月に高岡でもスタート。
それが「高岡4D-ポケット(通称タカポケ)」です。
「まちで何かをしたい」という人がプレゼン登壇し、その後参加者がアイディア出しをして、今後のプロジェクト進行に繋げていくという「ぜんぶ、ジブンゴト!」がテーマのイベントです。

第1回目に参加して感動。その後、ほぼ毎回通うようになり、秋にはスタッフとなりました。
プレゼンターや参加者の方、毎回毎回色んな人がいらっしゃるので、本当に刺激を受けます。

一方、自身も様々なテーマで3回プレゼン登壇しましたが、後に繋がったプロジェクトはひとつもありません。やはりこういうところに出てきてしまいます。
特に、一番最初。2016年9月、「若者によるまちづくり」という漠然としたプレゼンを実施。
「地域活性化とは何か」全くわかっていない現れです。
そこで集まったアイディア等で話は色々進み、2017年3月に音楽ライヴを企画することになったのですが、これも企画者として本当にひどかった。
先述の「専門外に手を出す」というところです。専門外なので何をすればいいか分からず、結果言い出しっぺとしての責任を全く果たせなかったのです。
色んな人を巻き込んだのに、全ての人にめちゃくちゃ迷惑をかけて終了しました。
2010年の荻布寮祭から、何も成長していませんでした。





これ以外にも、2014年から2016年にかけて(特に2016年)、ニート・フリーターをしながら、色んな活動に参加。
たまにSNSの発信やホームページ作成で活躍させていただいたこともありましたが、やはり受け身姿勢だったので、「〇〇に参加した」という経験が増えただけで、地域の貢献や自身の成長にはあまり繋がりませんでした。
この頃は、あちこち参加してどれも中途半端な人間という風に、周りからも見られていたかもしれません。

やはり、参加するプロジェクトの質がどれだけ良くても、自らの参加姿勢が中途半端だと、何の役にも立たないなと思います。



そんな中、おかげさまで、色々お声がけいただくことも多くなりました。
中でも新たな事業開始の話があり、2017年以降、そこに参加させていただくことになります。
そのため、2017年3月いっぱいで市役所非常勤を退職しました。

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