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高岡ふるさと応援隊会員No.0001のブログ

高岡市の情報をゆるーく発信。

駅南ダイエー跡 駐車場に



商業施設の建設を見送り、駐車場となることが発表された高岡駅南ダイエー跡
(写真左側の大きな更地)





かつては「駅裏」と言われた高岡駅南ですが、駅前なのでやはり「顔」。
そして今や新幹線駅やイオンモール方面に向かうための、重要な顔でもあります。

その駅南口からすぐのところに以前「ダイエー」があり、1976年から1999年まで営業。
ダイエー閉店後はパチンコ屋となっておりましたが、それも閉店したため昨年解体されました。

広い広い更地は、大手住宅総合メーカーが取得し、商業施設の建設を行うというニュースが出ていたのですが・・・。



昨日、残念なニュースが入りました。





ダイエー高岡跡を駐車場に 大和ハウス 商業施設建設見送り(2020年6月2日 北日本新聞)

 高岡市駅南1丁目の旧ダイエー高岡店跡地に平面駐車場が整備されることになった。高岡駅南口に面した一等地で、大和ハウス工業(大阪市)が2019年に土地を取得して商業施設の建設を検討していたが「当面は難しい」(広報企画室)として見送った。今後、駐車場の管理運営を委託する事業者を選定する予定で営業開始の時期は未定。
 「高岡駅南駐車場」とし、敷地面積は約9500平方メートル。7月下旬までに整地や排水設備の工事を終える。商業施設の見送りは、昨年の高岡大和の閉店やイオンモール高岡の増床リニューアルにより、高岡駅周辺の集客力が低下していることなどを総合的に判断した結果とみられる。
 広報企画室は「駐車場以外の事業に活用することを断念したわけではなく、いろんな角度から可能性を探っている」としている。
 ダイエー高岡店は1976年にオープンし、99年に撤退。その後、建物にはパチンコ店などが入居し、2019年に解体された。






再び、森山直太朗さんの名曲『どこもかしこも駐車場』のメロディーが、頭の中で流れました(笑)

正直な話、高岡市の財政難報道があっても、高岡大和が閉店しても、「高岡が終わった」とはこれっぽちも思わなかった人間ですが、今回はさすがに「高岡終わるのかな・・・」と一瞬弱気になってしまいました。

それくらい、駅南の再開発には期待していた・・・のかもしれません。

1970年代に祖父が著書にて「駐車場ほど非効率な土地利用はない」というようなことを書いておりましたが、あれから車社会が更に進んだ今、もうそういうわけには行かないのだと思います。




ちなみに、私は2009年のサティ閉店の際にも、今回のダイエー跡解体の際にも、「市民会館を移転させればいいんじゃないか」と思っていた人間だったりします。
(さすがにダイエー跡解体の時は夢みたいな話でしか思っていませんがw)

高岡城跡保存の観点から、市民会館や体育館の移転という話も出ていたと思います。
市民会館に関しては移転の目処も立たず、耐震化工事もできないため休館となり、2年以上・・・。
体育館は、スポーツコアでの総合体育館建設が、見送りに・・・。

「高岡何やってんだ」という話にもなりそうですが、もう公共施設や用地の利活用は、民間が担う時代なんだと思います。
役所や県外の大手企業に任せていては、進まないでしょうね・・・。

「高岡何やってんだ」って言っているうちは何も成長しなくて、「誰もやらないなら俺がやる!」くらいの気概が、必要なのかもしれません。
ダイエー跡は民間用地ですが、同様ですね。




残念ながら私もそこまでの覚悟がまだ持てないのが、とても悔しいです。


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これからの地域教育・・・

昨日、かつての先輩で現役小学校教員の方と、メッセンジャーでやりとりをしておりました。

「学校で教えることには限界があって、学校以外で教える活動をしたい」という先輩。
これからの教育のこと、やってみたいことなど、色々語り合っておりました。




自分が教育を受けている頃は、「教育」って大人から上から目線で言われるのがすごく嫌なタイプだったので(笑)、そんな人間が教育を語ることはできないなぁと内心思いながら・・・。
それに、学校以外の活動はほとんど参加しなかったタイプです(特に小学時代)。
あれですね、「午後に競馬中継見て、夕方笑点を見る」という生活スタイルは、小学4年から変わってないですもんね(笑)
つまり、日曜日はだいたい家にこもっていたということです。

しかし、まちづくり活動に参加するようになってからは、自然と小中高生を相手にする機会も出てきました。
特に大きかったのは、2016年に高岡JCで青少年育成の委員会に所属したこと。
夏休みに小学生を対象とした体験教育事業を運営したのは、自分にとってもいい思い出です。

また、同じく2016年の高岡JCの青少年育成や、高岡市選挙啓発サポーター「T-voice」にて、高校生対象の有権者教育事業に参加。
観光ボランティアガイド「やまたちばな」では、一度宿泊学習の中学1年生をガイドしたことがあります。
あとは、時々行う大佛三郎カステラ体験も、子ども向けですね。

でも、私自身人間ができていないのに、子どもたちと接するのは大変・・・と常々思います(笑)




とは言え、この歳になって、「教育って大事かもしれない」と思い始めている今日この頃。
「みらいづくり」も、「まちづくり」だなぁと思うのです。

そう思う理由は主に2つあります。




1つは、「地元に対する愛着は、小さいうちから持って欲しい」ということ。
大人でも、地元のよさをよく分かっていない、という状況がよく見られます。
それでも地元に残ってくれているだけいいと思いますが、若い時に「こんなまちは嫌だ」と出ていくのは、一番寂しいです。

最近は「総合的な学習の時間」や、高岡市独自の「ものづくり・デザイン科」で地域教育をするようになっていますが、それでもまだ足りないのかなと。
子どもたちが「高岡はこんなにいいところなんだ」と語れるくらいのまちがいいなと思うんです。

例えば高岡城ひとつとっても、「城なんてない」ではなく、「立派な城跡だ!」と言えるようになって欲しい。
もちろん大人にもしっかり教えなければいけないのですが、小さいうちから教える方がいいでしょう。

ただ・・・そういえば小学5年の「親子のつどい」で初めて国宝瑞龍寺を見学したのですが、
講師の先生の話、さすがにあまり入ってこなかったな・・・。
自分でさえ、文化財系の魅力を理解するようになったのは、高校時代でしたね(笑)




もう1つは、「お金に関する教育が、学校であまり行われていない」ということ。
まちづくり専門家の木下斉先生も、よく言っておられることです。

経済のことはもちろんですが、税金などお金に関することは、義務教育で詳しく学ぶ機会がありません。
高校や大学で、学科や学部によっては学べる・・・くらいです。
高校大学等でも学べなかった場合、社会に出ていきなり知るような話も多いと思います。

地域活性化にも必要な、「お金」のこと。
恥ずかしながら、私はその大切さを実感したのは、本当に最近のことです。

若い人が地域活性化に取り組むためには、教育段階での「お金」に関する学びが必要ではないかと思います。




先輩とのやりとりを通し、この辺をちょっと文章でまとめたいなと思った次第です(笑)
学校教育を動かすのはなかなか難しい話なので、先輩のやりたい「学校外での教育」と絡められたらいいなと思います。




ただ、繰り返しますが、私の小学時代は、学校外の活動にはほとんど参加しなかったのでしたw


公共交通と駐車場の話

森山直太朗さんの『どこもかしこも駐車場』という名曲があります。
この曲に大きな衝撃を受けました。

Google等で、高岡駅周辺の航空写真を見てみると、本当に駐車場だらけだなぁと思ってしまいます。
最近では、えびす通りにあった4階建て(確か)ビルのクラウン会館が解体され、跡地は大きな駐車場となりました。
こんなまちなかでも、「どこもかしこも駐車場」というような時代になりました。



地方はもう完全に車社会。高岡も車なしには生活のできない場所と言われています。
どこへ行くにしても「駐車場」が必須。駐車場がないお店や施設は、それだけで不利になるくらいです。
一方、鉄道やバスなどの公共交通は、大都市と比べて充実しているとは言えず、むしろ不便に感じることも多いと思います。



まちづくりでは「公共交通」のことを考える機会も多く、私も早くから関心のある分野でした。
高岡の公共交通を何とかしたい!という気持ちは、かなり強いです(笑)

でも、そんな私が公共交通を利用しているかという話になると・・・。
たぶん、普通の高岡市民よりは、「車を使わない生活」を心がけてはいると思います。
しかし、その結果は主に徒歩か自転車w
たまに普通では考えられない距離を徒歩や自転車で移動するため(大都市になればまだ常識的か)
「車を持っていない」と誤解されることも多かったです(笑)

一方、肝心の鉄道やバスは、たまにしか利用しないのが現状です・・・。
一番使うのは、万葉線。15分に1本なので、思い立った時に利用できるのがいいなと思います。
その次に使うのは、あいの風とやま鉄道。富山や金沢などへ行く際に、時々利用します。
氷見線や城端線は・・・年に1回使うかどうかですね。
バスは、滅多に利用しないかも・・・。

これでも、機会があれば使おうと心がけるのですが、なかなか日常にしづらいのが現状です。
結局、場所によりますが車を頼らざるを得ない時が、かなりの頻度で訪れるわけです。



高岡では、コミュニティバスを廃止した時に一定の批判が出たと思います。
でも、私は一度も利用したことがなかったので、批判する資格もないだろうなと思っていました・・・。




こんな私でも、「公共交通をもっと充実させるにはどうしたらいいか」「車や駐車場を利用しなくても来てもらえるまちなかにするにはどうしたらいいか」なんていうことを、長年考えてきました・・・。
でも、公共交通ではなく自家用車の方が「インフラ」となっている時代。
これを覆すのはなかなか難しいですし、ただただ「公共交通を使おう!」「ノーマイカー運動!」なんていう運動を展開したところで、人の心を変えることはできないという結論に至りました(笑)

たぶん、大事なのは、公共交通のメリットがマイカーよりも上回るようにすることと、
そのメリットをしっかりとPRすること。
つまり、公共交通の「需要」を作ることだなと最近思います。

思いとしては、「中心市街地にはマイカー乗り入れ不可!」くらいになったらいいと思っていますが・・・w
それでも成り立つ仕組みを作らなければいけませんね。



なお、現時点でアイディアが全く浮かばないので・・・。
アイディアがまとまったら、再度更新したいと思います。忘れていなければ(笑)
まずは、自分自身、今まで以上に利用して、どこが便利でどこが不便かちゃんと理解しなければいけないなと思います。






最後に・・・。
高岡市では毎年「公共交通マップ」が発行されております。



高岡市公共交通マップ(2020年版)(PDF)



紙のバージョンは、ポケットサイズで、とっても便利。
駅など色んな施設で配布されているので、ぜひ一度手に取ってみてください!

自分も2020年版はまだ手に取っていない・・・。




全くまとまらない文章となりましたが、今日はこの辺で。



空き家問題の話

今年の春まで市役所の臨時職員として、主に空き家対策の業務に携わりました。

それまで「空き家のまちづくり」と言えば、「空き家活用」ということしか頭にありませんでした。
全国的に、空き家を活用した飲食店や宿泊施設などが有名になり、高岡市内でも実際に活用した例がいくつか注目されています。

しかし、それは言ってみれば「陽の当たる部分」だなと、実際に空き家業務に携わってみて感じました。
実際の「空き家問題」は、高岡市内でも何千軒と存在する空き家について考えなければならない。

実感としては、「近隣の空き家に関する苦情」が圧倒的に多かったなと思います。
1980年代(新耐震基準後)に造成された住宅団地に生まれ育った私。
近隣に空き家はあっても、それで困った経験はなかったので、正直このような現状があることを全く知らなかったのです。

また、「手放したいのに売れなくて困っている」といった空き家所有者の声も、よく耳にしました。

そういった話が大半なので、実際に活用される例なんてほんの一握り。
しかもテレビなどで取り上げられるような華やかなパターンは、本当に「陽の当たる部分」でしかないのです。




何千軒と存在する空き家の実態把握と、問題のある空き家への対応、空き家バンクなどの活用に向けた取り組み・・・。
少数のスタッフの中で途方もない作業となることもあるほど、「空き家」というのは大きな課題でした。




さて、そもそも何故「空き家」が増えているのか。
これも空き家業務に携わるまで、あまり考えたことがありませんでした。
また、実際に携わってからしばらくは、日々のことで一杯一杯になり、考える余裕もありませんでした。

でも、考えてみたら、簡単な話なんですよ。
簡単な話なのに、それまで全く気づかなかったわけです・・・。



空き家が増えている理由。
それは、「人が減っているのに、家が増えているから」。



このことは、国が5年に1度行っている「住宅・土地統計調査」などでもはっきりしています。

平成30年住宅・土地統計調査(総務省統計局ホームページ)

また、高岡市の統計でも、人口は減っているのに、世帯数は未だに増え続けています。
もちろん、世帯数にはアパートなども含まれていますが、持ち家も含めた核家族化が進んでいると言える数字でしょう。



人が減っているのに、家はむしろ増え続けている・・・。
そりゃ、空き家が増えて当然ですね・・・。




日本は「新築志向」が強いと言われています。
以前、とある講演で「欧米は住宅流通のうち中古住宅の割合も高いが、日本は未だに新築が8~9割を占める」という話を聞きました。
(数字についてはうろ覚えです・・・)
高岡でも郊外での新築住宅が好まれている印象を持ちますね。

なおかつ、昨今言われている「核家族化」の影響。
でも、もうこれは仕方ないとは思います・・・。
三世代世帯の時代ではないですし、結婚して相手の両親と同居・・・嫌に感じる人は多いでしょう。

そして、特に富山県で言えることですが、「持ち家率」の高さ。
「家を持って一人前」という文化が、今も残っているのかもしれません。



これらを踏まえ・・・。
結婚して所帯を持ったら、実家を離れて新築。
実家の両親はやがて年老いていき、家を引き継ぐ人もいないので、空き家に。
また、子どももやがて独立するため、新築した家も同じ運命をたどるわけです。

結婚しても親と住め、と言うわけではありませんが、
親が住んでいる実家や、これから住む家が将来どうなるか、しっかり考えてから新築するべきかなと思います。



こうした空き家を増やさないために、個人レベルでできることを考えてみると・・・。





①新築せず実家で親と同居する(まあ、一応入れておきます・・・)
②新築ではなく中古住宅を購入する
③持ち家にこだわらず、アパートや借家で人生を過ごし、老後に実家暮らしする
④実家や新築住宅の将来の活用や処分方法をしっかり考えてから、新築する





こんなところですかね・・・。
いずれにせよ、相続で引き継いだ空き家を放置するような無責任なことだけは、絶対にしないようにしたいです。

私も、将来所帯を持つことがあれば、少なくとも新築だけはしないかな。
せめて中古住宅を考えたいと思います。








もっとも、結婚の予定は、ありません・・・。



高岡大和の閉店で当時思ったこと

2019年4月11日、高岡に衝撃のニュースが走りました。

「高岡大和、8月末で閉店」





あのニュースから早1年。8月25日の閉店からも、もう8ヶ月が経過しました。


1937年に「丸越」としてオープン。その後1943年に「大和」となり、大和としての歴史は76年。
「丸越」を含めたら82年の歴史でした。
高岡で唯一の百貨店だったこともあり、長年「高岡(中心市街地)の顔」として親しまれてきたと思います。

しかし、中心市街地衰退の波に飲まれてしまったのか、近年は厳しい状況になり、残念ながら閉店となりました。


やはり寂しいという声が非常に多かったと思います。
また、「高岡は終わった」などの声も、報道にありましたね。
このように高岡の将来を憂う声も、少なくなかったような気がします。

でも、正直これがよくわかりませんでした。




確かに、私も寂しいと思いました。
もう再開発ビル御旅屋セリオに移ってからの歴史(1994年以降)しか知らない世代ですが、幼稚園、小学、中学、高校と、それぞれ思い出が浮かびますし、小さい頃は特にワクワクするような建物だったと思います。
また、大学時も帰省時に立ち寄ることがありましたし、Uターン後もイベント等で何かと足を運んでいました。
なので、閉店のニュースを聞いた時は、ショックもありました。

でも、思い返してみると、最近高岡大和でどれくらい買い物をしていたか。
中に入っていたパン屋やカフェでたまに買い物・食事をしたくらいで、それも年に1回あるかどうか。
イオンモールはあまり行かないと公言している私でも、結局はイオンモールで買い物する頻度の方が高かったりします。
少なくとも私自身は、生活に必要な存在だったかと言えば、全くそうではなかったのです。

これは私だけではないのではないでしょうか。
大和がなくなって、生活に困るという高岡市民は、今ではそこまで多くなかったのでは。
(もちろん近隣の方にとっては、買い物するところがなくなるというダメージがあったと思います)
そうでもなければ、閉店に追い込まれるようなことは、ないと思います。



そもそも、地方の百貨店自体、もう時代に合わなかったのではないでしょうか。
日常の買い物なんて、郊外店舗で全て済ますことのできる時代。
百貨店の閉店で「高岡が終わった」と思うのは、「高岡の顔」という古くからのイメージが払拭できなかったからであって、もう既に「高岡の顔」でも何でもなかったのかもしれません。

また、地域経済ということを考えれば、もしこれが「高岡に本社がある大手百貨店の倒産」という話であれば、高岡にとっても結構なダメージだと思います。
しかし、あくまでこれは県外資本店舗の撤退です。
なので、正直これをもって「高岡が終わった」という考えには、全く至らなかったのです。
(そもそも、県外資本店舗を「地域の顔」と呼んでは、いけなかったのでは?)


高岡が暗澹とした空気になっていたあの頃、私はこんなことを思っていたのでありました。




そして、閉店決定時から、今でも言われ続けているのは、「跡地の活用」。
行政にとっては重要課題として扱われ、市民にとっても関心の高い話題となっております。

そもそもビル自体は「御旅屋セリオ」という再開発ビルのため、全てのエリアが閉鎖されるわけではありませんが、今でも一部のエリアが閉鎖となっています。
報道でも、SNS上でも、その跡地活用について様々なアイディアが浮上していました。

でも、正直思ったのは、今焦ってテナント誘致をしたところで、そんなに大した結果は出ないんじゃないかなと・・・。
御旅屋セリオを含めた中心市街地に、どうやったらテナントが出店してくれるようになるか、しっかり考えなきゃいけないような気がします。
それなくしていきなりテナント誘致だけしても、果たしてどうなんだろう・・・。

「中心市街地の活性化」は重要なテーマですが、「御旅屋セリオの跡地活用」はその手段でしかないので、まず大元の方向性がしっかりしていないと、手段ばかり先走ってはいけないと思うんです。

これも閉店当時思っていたことです。




その後、市が御旅屋セリオのフロアを買い取るという話になり、
市部署の一部移転、高岡地域地場産業センターの移転、eスポーツの拠点開業など、様々な話が進みました。
元々公共施設の入居もあったビルですが、その色合いが更に強まるようです。



「中心市街地の活性化」は、私も重要だと思っています。
ただ、地域経済の話になりますので、本来は「行政が補助金でなんとかする」話ではないはずです。
新しい形の活性化が必要だなと思っていますが・・・頭が固いので何も出てきません(笑)



10年間の反省 その④

高岡大仏周辺のまちづくりを行うNPO法人「大佛三郎」と出会ったのは、2015年。
(存在自体は、学生時代からSNSで知っていました)
観光ボランティアガイドやまたちばなに、大佛三郎理事長が入会したことがきっかけでした。

翌2016年は大佛三郎カステラ出店手伝い、大仏前公園での朝ヨガへの参加という形で協力しておりました。
その後、大仏周辺で事業をしようという話になり、市役所非常勤退職後の2017年6月に理事就任。
そして8月末から、大仏周辺での朝食事業(週末限定)をスタートさせました。

また、同時期に山町筋の飲食店開業の話もあり、お手伝いさせていただくことになったのですが、
大仏事業もあったため最終的にはアルバイト(オープニングスタッフ)という形になりました。
こちらも9月にオープンしました。

2つの観光地飲食店開業に携わることになり、とてもワクワクしていた一方、
今思えば「朝」と「夜」の両立はかなりしんどかったですね・・・。

そして、これらもやはり「学ぶ姿勢」で取り組んでいたのですが・・・。
この辺はこれまでと一緒です。



2018年、依然としてフリーター状態だった私を心配してくれたこともあり、4月からNPO職員としての雇用形態をとってもらうことに。
とは言え雇用関係の事務は全て自分で行ったので、その辺の経験ができたのは本当に良かったです。ただ、結果それだけで終わりました。

朝食事業以外にも、大仏周辺で事業を構築し・・・というのを目指していたものの、私の力では到底できなかった。
そもそもどうすればいいのかさえわからなかった。

人のやっている事業に受け身姿勢で参加し続けたとしても、「いざ自分で」となると何もできないのです。
これはもう、全く違う能力。自分で考えて行動する経験が全くなかった私には、とても無理でした。

結局、何もできないのに変なプレッシャーだけがのしかかり、とうとう8月いっぱいで退職になりました。



こうやって振り返ると大した挫折でもなく、とても恥ずかしい話ですが、
これらを経て「まちづくりにはもう関わりたくない」と真面目に思い始めていました。
とは言っても決して嫌気を差したというわけではなく、「自分の能力では無理だ」と思ったのです。




もう26歳だし、「高岡のまちづくり」なんて身の程知らずの夢は諦めて、そろそろ真面目に働こう・・・。




そんな中、とりあえずの再就職先は、あっさり決まりました。
市役所建築政策課(かつて非常勤で勤務した旧建築住宅課などが再編してできた課)の産休代替職員として、2018年10月から2020年3月までの1年半、勤務することになりました。

「やりたいことがある」と言って2017年3月に退職した市役所に、僅か1年半での舞い戻り。
もう「わけアリ」感が半端ないですね(笑)後ろ指覚悟でした。

でも、「産休に入る職員さんがいる」とお話をいただいた時、26歳無職。
この状況で断る方がおかしいので、即応募したのでした。



産休代替職員は非常勤同様の非正規雇用にはなりますが、任期があること以外はほぼ正規同等雇用。
フルタイムでちゃんと働くのは、恥ずかしい話、人生初めてでした。

なので、この1年半真面目に働いたのは、とてもいい成長になりました。
色んな事情があって大学時に就活をせず、そのままフラフラな生活を続けておりましたが、やっぱり働かないと得られないものはいっぱいある。
特に「人としての責任」を、30歳近くになってようやく学ぶことができたと思います。
今までの自分は本当に無責任だったんだなと、つくづく感じました。

また、空き家対策や住宅政策に関する仕事に携わったのですが、特に空き家対策関係の団体の方との繋がりができ、学生さんも交えて一緒に活動を行ったことが大きな経験になりました。

そして、フルタイム勤務になって時間の制約ができたにもかかわらず、急に色んな意欲が湧いてくるようになりました。
この再就職がいいリハビリにもなったような気がします。





一方、「まちづくりにはもう関わらない」と思っていたところではありますが、2018年暮れには早くも大きな話が決まります。
なんと、2014年から在籍している観光ボランティアガイド「やまたちばな」の次期代表になったのです。
最年少で入会歴もガイド歴も短く、順番的に自分でないのは明らかだったのですが、勢いで立候補することになりました。
まさか、20代のうちに代表になるとは・・・。

そして2019年2月、正式に代表就任となりました。

これまで一会員として参加していたのが、急に代表になるわけですから、心境も全く変わります。
これも自分にとって大きかったです。
やはり、責任を負う立場という経験が欠けていたのだと思います。

しかし、未熟なもので、ここでも悪戦苦闘です。
毎月の定例会をこなすだけでもいっぱいいっぱいな状態。
なんとか最初の1年を終えることができましたが、今は新型コロナウイルスの影響で予定が色々狂っております・・・。




この頃、「地域活性化とは何か」という答えに、改めてたどり着きます。
きっかけは活動でも何でもなく、まちづくり専門家・木下斉先生の著書を読んだことでした。

まず目にしたのは、『稼ぐまちが地方を変える ―誰も言わなかった10の鉄則―』。
その後、『地元がヤバい・・・と思ったら読む 凡人のための地域再生入門』、最近は『まちで闘う方法論』も読みました。

これらの著書で学んだことは、「地域活性化=地域に稼ぎを生み出すこと」「まちをひとつの会社に見立てて経営すること」「まちづくりは補助金に頼らず民間中心に」といったことでした。
これまでになかった目線を学び、同時にこれまでの自分の姿勢も良くなかったと感じました。
まちづくりのダメなところだけでなく、自分のダメなところもよくわかったのでした。

そして、大学時代に通っていた塾の先生に言われたこと・・・それが全てだったなとこの時気がつきました。
あの時、「経済」「経営」という目線を持って、そういった分野を学ぶことができれば、その後の5年間は全く違っていたはず。

もっと言えば、高校生の頃に気づいていれば、大学は法学部に行かず、経済学部か経営学部に進んでいたと思います・・・。




そんな中、2018年暮れに大仏周辺での新たな事業の話が出てきました。
本当は、市役所産休代替職員の任期が終わる2020年春に向けた就活を考えていましたが、退職後は再度まちづくりに飛び出そうと決めたのでした。

2019年中は、その事業に関する打ち合わせも少しずつ進めていきましたが・・・。
なかなか自分の能力や思考が周りのメンバーに追いつかず、正直今でも頭を悩ませています。
でももう、やるしかないんだという気持ちで取り組んでおります。

そして、同時並行で、ようやく自分で事業を組み立ててみる段階にも入りました。
2020年3月の退職後、新型コロナウイルスの影響もあって家にこもるようになりましたが、ない頭で色々考えているところです・・・。






・・・家にこもる生活で、これから地域活性化事業に挑戦していく中、
今までの反省も踏まえて改めて振り返ってみようと思い、4回に分けてブログ記事を書きました。
これがもう既に成功している人の半生だったら、読む方にとっても価値のある内容だと思いますが・・・いつかそうなるように頑張ります。

「高岡を盛り上げたい」「高岡の地域活性化をしたい」と思い始めて10年あまり。
しかし、「地域活性化は、地域で稼ぎを生み出していくこと」という結論に至るまでに時間がかかってしまっただけでも、かなり損な時間を過ごしていました。

そして、「色々参加しているうちに、答えが見つかり、自ら事業を起こすこともできるようになるだろう」という姿勢もアウトでした。
「自分はまだまだ経験不足だから、何もできない」と言って逃げているに過ぎなかったのです。

「とりあえず何か自分でやってみよう」という姿勢があれば、高校生の頃にでも何か始めることができました。
学生起業家の方も、今時たくさんいますからね・・・。
行動できる人は、すぐ行動できるので、本当にすごいなと思います。

こうやって、10年あまりを無駄に過ごしてしまったのは、自分にとっても、地域にとっても、マイナスだったと思います。
行動できない性格を今から直すのは、なかなか難しいかもしれませんが・・・。
次の10年を無駄にしないためにも、高岡のために自ら行動していきたいと思います。



10年間の反省 その③

2014年4月、当時22歳。
無職となって高岡にUターンしました。




「高岡を盛り上げたい」「高岡の活性化に貢献したい」などということを、高校生の頃から繰り返し述べていましたが、結局のところ「地域活性化」とは何なのかよく分からないまま生きていました。

あまりにも漠然としたテーマなので、意外と陥りやすい罠なのかもしれません。
学生時代のネット上での発信活動、卒業・Uターン後の地域活動参加は、今思えば「よくわからんけど、色々やっているうちに答えが出るだろう」「とりあえず色々参加して現場を見れば、いずれ自分のやりたいことが見つかるだろう」くらいのノリでした。
「自分探しの旅」みたいなやつです。

特に卒業後の数年は、今考えるとびっくりするくらい色んなところに足を運び、学びや経験を得ようとしておりました。
おかげで様々な経験、そして多くの出会いがありましたが、肝心の「地域活性化とは何か、自分は何をしたいのか」という答えを得ることはありませんでした。

それは何故か。
全てにおいて、受け身の姿勢であったことかなと思います。
特に「自分で考えて行動する」ということが欠けていた。
それなくして、ただ参加しても、得られることは少なかったなとつくづく思います。

なんか色々参加していれば、経験に基づいて自然と知識がついて、いずれいい考えが浮かぶだろう、という姿勢が全くダメだったのです。
そんな姿勢では成長もできなければ、現場で役にも立ちません。




そして、最終的に得た結論。
それは既に学生時代、耳にしていたことでした。

大学再受験という無謀なことをしていた際、都内の個人指導塾に通っておりましたが、
その先生にはっきり言われたことがありました。
「地域活性化は経済発展だ」と。

この時、「地域活性化とは何か」と聞かれて曖昧な答えしかできず、一蹴されてしまったのがとても悔しかったことを覚えております。
しかし、当時「経済発展」と言われてもピンと来なかったのも正直なところ。
こんな的を得たアドバイスをこんな早い時点でいただいていたのに、全く活かせなかったのが今ではもっと悔しいですね・・・。
(ちなみにこの先生は地域活性化の専門家でも何でもありません)
「地域の経済発展なんて、自分にできることではない」と思っていたのが大きいでしょう。

したがって、その後約5年程、「自分探しの旅」を続けることになります。







~人生初めての地域活性化プロジェクトへの参加~

Uターンした2014年春から、とある地域活性化プロジェクトの会議に出席。秋頃からはイベント手伝い(物販等)で県内外に足を運ぶようになりました。
「〇〇で地域を盛り上げよう」というようなプロジェクトは、よくあると思います。飲食だったり、芸能だったり。その部類のものです。
元々、全く興味のない分野だったのですが、当時は興味分野関係なく色んな「ご当地〇〇」を応援しており、学生時代の2013年にプロジェクトにお声かけいただきました。
初めて高岡の活性化プロジェクトに参加させていただくことになり、当初はものすごく張り切っていました。

しかし、ここには書けないような様々な事情もあり、嫌気を差すこと、ひどい時には傷つけられるようなこともあったので、2016年夏にプロジェクトを離れることとなりました。
辞めた直後は感情的なことしか思いませんでしたが、4年も経てばさすがに冷静に見つめられるようになります。

諸々の話は抜きにして、自分自身の問題点と、「地域活性化プロジェクト」特有の問題点を振り返れば、
自分自身に関しては先述の通り基本「受け身姿勢」で、単なるイベントスタッフの一員としてしか役に立たなかったこと。

そして、「地域活性化プロジェクト」特有の問題点としては、典型的な「補助金事業」であったこと。
当時は私も「地域で稼ぐ」という目線は全く持っておらず、「地域活性化=補助金事業」が当たり前と思っていました。
しかし、事業として自立していないと、継続しない。
会議に出る度に「金がないから何もできない」みたいな話があり、補助金も年々額が減り、私が離れた後には補助金が打ち切られました。
その後も細々と継続しておりますが、かつてのような勢いは全くなくなりました。

また、興味分野でないことへの参加は、今思えば慎重になるべきでした。
しかも、このプロジェクトに関しては、私だけでなくその分野に強い人がほとんどいませんでした。
これも地域活性化プロジェクトには、ありがちな話かもしれません。
やはり餅は餅屋。「地域活性化がしたい」という名目で、興味分野、もっと言えば専門分野や得意分野でないことに安易に手を出すのは、よくないなと。素人がやると中途半端なものしか出来上がらないので。
これだけでなく、この後いくつか参加したプロジェクトで、そう感じました。



・・・しかし、これに気づいた時、自分は本当に弱いなと思ってしまいました。
いかんせん「地域活性化」という漠然としたテーマのみを「興味分野」としていた人生なので、それ以外の興味分野は「競馬」くらいしかありません(笑)
また、「専門分野」「得意分野」と呼べるものも、あまりないのです。
こういう目線が早くからあれば、何か役立つスキルを身に着けることもできたのに。
何もない人間は、はっきり言って地域活性化分野でも役立たずです。

・・・今から高岡に競馬バーでも作るか、なんて(笑)





~観光ボランティアガイドやまたちばな(入会当初の話)~

無職となって高岡にUターンし、「これからどうしていこうか・・・」と考えていた頃。
「とりあえず高岡の観光地を学び直そう」と思い、観光協会主催の「観光ボランティアガイド養成講座」に参加。
市内5つの観光ボランティアガイド団体の案内で、観光地(高岡古城公園、高岡大仏、山町筋、金屋町、瑞龍寺、伏木)を学習する講座です。

高岡の観光地については、学生時代までにある程度は知っていたつもりですが(荻布寮祭で、高岡の観光地を紹介する動画を作ったこともあったので)、実際にガイドさんの案内を受けてみると、まだまだ知らない魅力がたくさんあって、楽しく学ぶことができました。
(また、この講座の参加により、高岡市広報誌『たかおか市民と市政』2014年7月号の特集に、びっくりするくらい大きく取り上げていただきました。当時金髪の無職・・・)

そして、この講座の最終目的は、観光ボランティアガイド団体の会員増ですが・・・。
当時の私はガイド団体に入るつもりはなく、ただ勉強するだけの予定でした。
(実際、この時の私のように、勉強目的のみの参加者が多いのが今でも課題です・・・)

しかし、5団体のうち、高岡古城公園・高岡大仏担当の「やまたちばな」からお誘いを受け、断れない性格の私は9月の定例会に出席。そのまま入会という流れになりました。
定年退職後の入会が多い観光ボランティアガイド団体に、22歳で入会するというのは異例中の異例でした。

ここでも「受け身姿勢」を存分発揮・・・。
元々積極的な入会でなかったのも大きいですが、何よりも人前で喋るのが苦手な私が、観光ガイドをするなんて想像もできませんでした。
ただ定例会に参加するだけの人間として、1~2年程を過ごし・・・。
このままではいけないと思い始め、2016年頃から、ガイド時間の短い高岡大仏にまず挑戦。
その後、2017年頃から高岡古城公園も少しずつ挑戦するようになり、ようやく一人で公園ガイドができるようになったのは、2018年です。
なので、ガイドに関してはまだまだ素人です。
今思えば、あまりにも時間がかかりすぎました。こんな奴を温かく見守ってくださった先輩方にも感謝です。

まさかその後すぐに代表になるなんて、夢にも思いませんでしたが、代表になった話は後述します。

ちなみに、このまま無職ではいけないと思い、2015年4月から2年間、高岡市役所建築住宅課の非常勤職員として勤務。
喋ることへの苦手意識は、ここでの窓口業務や電話業務である程度克服していたのが大きいです。





~(公社)高岡青年会議所(高岡JC)~

大学4年だった2013年、まちづくり事業「魅力ある高岡フォーラム」にパネリストとして参加させていただいたご縁で、2015年に(公社)高岡青年会議所の賛助会員として入会。
当時23歳のフリーター(市役所勤務とは言え、非正規雇用)でした。
今思えば、高岡の青年経済人として活躍される皆様と同じ団体に、賛助会員とは言えあんな中途半端な人間がよく入れたものです。
でも、40歳で卒業の団体にこんな早くに関われたことで、より多くの出会いと経験ができたと思います。そして、2032年まであるので、これからも・・・。
人との出会いに関しては、高岡JCと後述の「タカポケ」が特に幅広いと感じます。

JCはいわゆる「単年度制」で、1年で役員も委員会も全て交代。
毎年違った事業を経験できるのが、特に楽しいです。
その年の個人的な状況によって参加の状況が大きく変わりますが・・・。気がつけば今年で6年目。
簡単に振り返ります。


2015年度(1年目)アカデミー拡大特別委員会
新入会員として、JCのいろはを学ぶ段階。
また、新入会員を中心に、12月度例会の企画・運営を行いました。
(JCは1月始まり12月終わりの年度単位なので、12月が年度最終例会。年間の活動報告や、卒業式、次年度理事長への引継ぎ式などが行われる重要な例会)

2016年度(2年目)次世代育成実践委員会
高岡JC3政策「まちづくり」「ひとづくり」「みらいづくり」のうち、青少年育成を担う「みらいづくり」の委員会。
賛助会員ですが、2年目として委員会「幹事」と同等の活躍をさせていただきました。
委員会として、「子育て」をテーマとした5月度オープン例会、夏休みの小学生を対象とした事業「新幹線でGo!『未来高岡かがやき教室』~僕らの夢は無限大~」を運営。
(志村けんさんが亡くなった今、この事業で「バカ殿」の舞台を見に行ったのを思い出します)
また、18歳選挙権となった年で、市内2高校で有権者教育事業を実施。

2017年度(3年目)まちづくり実践委員会
大仏の事業等に関わり始めたため、ちょっと力が抜け始めてきた頃・・・。
大伴家持生誕1300年ということもあり、「万葉」をテーマとした4月度オープン例会、
10月の高岡万葉まつりと並行して開催された「高岡かざぐるまアート2017」を担当。

2018年度(4年目)まちづくり実践委員会
大仏事業の本格化と挫折があり、完全に幽霊部員化していた頃。
「市民討論会」として開催した4月度オープン例会と、「たかおかARスタンプラリー」事業を担当。

2019年度(5年目)まちづくり委員会
さすがに3年連続のまちづくり系委員会は・・・と思っていましたが、「開町410年」というワードを聞いて心が動きました。
また、時間に余裕ができたことと、前年までの色々で心変わりしたことで、3年ぶりに積極的に参加。
「開町410年」をテーマとした4月度オープン例会、開町410年事業「高岡城下町フェスタ2019」を担当。

2020年度(6年目)総務委員会
4年連続はよくないと思い、今年は総務委員会へ。
総会や理事会の設えを担当する他、早速新年祝賀会の担当となりました。
昨秋から今年3月の退職まで仕事が夜遅くなり、再び幽霊部員に・・・。
今年は会の創立50周年と、「全国城下町シンポジウム」という大事な年でしたが、新型コロナウイルスの影響で、全ての事業がいったんリセットの状態となっています。


「賛助会員」という甘えが出る時もあり、やはり受け身姿勢に陥りがちなのですが、
JCで特に悩んだのは、まちづくり系委員会に3年連続所属したのに、何のアイディアも出せなかったこと。
「アイディア」もすごく苦手です。若い若いと言われますが、頭がものすごく固いんだろうなと。

そして、今後正会員になるかどうかは・・・金銭等の問題もあるので、様子見です(笑)




~高岡4D-ポケット(タカポケ)~

24歳となった2016年は、本当にあちこち足を運ぶようになります。

神奈川県鎌倉市の「カマコン」を基としたプロジェクトが、2016年2月に高岡でもスタート。
それが「高岡4D-ポケット(通称タカポケ)」です。
「まちで何かをしたい」という人がプレゼン登壇し、その後参加者がアイディア出しをして、今後のプロジェクト進行に繋げていくという「ぜんぶ、ジブンゴト!」がテーマのイベントです。

第1回目に参加して感動。その後、ほぼ毎回通うようになり、秋にはスタッフとなりました。
プレゼンターや参加者の方、毎回毎回色んな人がいらっしゃるので、本当に刺激を受けます。

一方、自身も様々なテーマで3回プレゼン登壇しましたが、後に繋がったプロジェクトはひとつもありません。やはりこういうところに出てきてしまいます。
特に、一番最初。2016年9月、「若者によるまちづくり」という漠然としたプレゼンを実施。
「地域活性化とは何か」全くわかっていない現れです。
そこで集まったアイディア等で話は色々進み、2017年3月に音楽ライヴを企画することになったのですが、これも企画者として本当にひどかった。
先述の「専門外に手を出す」というところです。専門外なので何をすればいいか分からず、結果言い出しっぺとしての責任を全く果たせなかったのです。
色んな人を巻き込んだのに、全ての人にめちゃくちゃ迷惑をかけて終了しました。
2010年の荻布寮祭から、何も成長していませんでした。





これ以外にも、2014年から2016年にかけて(特に2016年)、ニート・フリーターをしながら、色んな活動に参加。
たまにSNSの発信やホームページ作成で活躍させていただいたこともありましたが、やはり受け身姿勢だったので、「〇〇に参加した」という経験が増えただけで、地域の貢献や自身の成長にはあまり繋がりませんでした。
この頃は、あちこち参加してどれも中途半端な人間という風に、周りからも見られていたかもしれません。

やはり、参加するプロジェクトの質がどれだけ良くても、自らの参加姿勢が中途半端だと、何の役にも立たないなと思います。



そんな中、おかげさまで、色々お声がけいただくことも多くなりました。
中でも新たな事業開始の話があり、2017年以降、そこに参加させていただくことになります。
そのため、2017年3月いっぱいで市役所非常勤を退職しました。


10年間の反省 その②

2010年、高校卒業を迎え、東京都内(ただし1年次のみ神奈川県内のキャンパスに通学)の私立大学に進学。
同時に、高岡市出身の大学生が集まる学生寮「高岡市荻布学生寮」(現・高岡市学生寮)に入寮しました。
ここで2014年3月までの4年間を過ごします。

宿探しが面倒だったのもあり、こんな寮があるならそこに入ってしまおうと、高校3年の秋頃には心を決めておりました。
それに、東京へ行っても故郷を忘れられない寮生活というのには、とても魅力を感じました。

しかし当時の荻布寮は、築50年近くが経過する、若者にとっては残念に感じる建物だったかもしれません。
(2018年に建て替えしたので、現在はとても綺麗です)
でもそんなことは全く気にしませんでした(笑)

荻布寮で過ごした4年間はとても楽しかったし、今でも付き合いのある友人は荻布寮の仲間が多いです。
また、人間として成長するきっかけが、荻布寮だったなと思います。
荻布寮に入っていなかったら、今の自分はないと言っても過言ではありません。



一方、せっかく東京で4年間を過ごしたのに、大学に行ったら全く殻を破れず。
結局、荻布寮以外の人間関係はほとんど構築できませんでした。
陰キャラの影響はこういうところにも出てくるものです。



また、荻布寮の活動も、いざとなったら自信のない部分、行動できない部分、そして何よりも人を巻き込めない部分が大きく出てしまいました。
特に「人を巻き込む」ということに関しては、今でも苦手です。今後絶対に克服しなければいけないと思っております。

例えば1年生の時の寮祭出し物は、自分が言い出しっぺの企画だったのに、企画力もない、自分の考えを人に伝えられない、ろくな打ち合わせもできない、最終的にグダグダになるという最悪なパターンでした。
そして、3年生の時には寮生運営のトップである委員長になりましたが、リーダーとしての資質は全くありません。
やはり自分の思いを周りに伝えられない。結果、誰かに丸投げするか、自分勝手にやるかのどちらかでした。
特に寮祭は「高岡のPR」と「来場される方へのおもてなし」をモットーに、今までのスタイルを壊してまで奮闘し、大がかりな企画も用意して盛り上がりましたが、結局は独りよがりな企画でした(それでも盛り上がったのは、周りの皆様のおかげです)。
当時は「こんな自分でもここまでできた!」と自画自賛しておりましたが、今思えば最悪です。



でも、いい経験も悪い経験も、自分にとっては大きな財産。
人生で初めて大きな財産をくれたのは、荻布寮でした。
ただ、自分にもっと能力(その他諸々)があれば、もっとなんとかできたなという思いが一番強いのも、荻布寮です。
その辺を語り出すと長くなるので、やめておきます。
いくら嘆いても荻布寮生には戻れませんので(笑)





もちろん、この4年間は高岡を離れていたので、高岡で何か活動をしていたわけではありません。
ただ、高岡の情報はネット等で逐一チェックし、帰省もなるべく長くとっておりました。
帰省した際には色んな行事に参加してみたり。
2011年8月には高岡駅の南北自由通路「万葉ロード」が供用開始されましたが、そのセレモニーにも足を運んでおりました。

そして、大学3年の夏を迎えた2012年7月。
私の代名詞(笑)ともなる「高岡ふるさと応援隊」に応募し、会員No.0001になりました。
前身ブログは2011年を最後に更新をしなくなりましたが、高岡ふるさと応援隊をきっかけに、2012年11月から当ブログを開始。
2013年2月にはTwitterアカウントも取得しました(その後1年近くはTwitterが中心となってしまったため、ブログが疎かになりました・・・)。

その後、大学4年を迎えた2013年、このブログをきっかけに(公社)高岡青年会議所の方からお声がけいただき、北陸新幹線開業後の並行在来線問題等を考える「魅力ある高岡フォーラム」というまちづくり事業でパネリスト登壇。
この縁で、大卒Uターン後の2015年、賛助会員として(公社)高岡青年会議所に入会いたしました。




こうして東京にいながら、地元高岡で色んなご縁ができたのも、この頃です。
小さいことでも、思いを持って行動すると、大きな力になるなと思いました。

しかし、この頃「高岡のまちづくりをする学生団体を作りたい」などと言っていたような気がしますが、前述のような人間であるため当然そのようなことは成し遂げられず。
富大芸文生や法科大生との繋がりが欲しかったですね・・・。





さて、いよいよ大卒を迎えるわけですが、諸事情により就活を全くせず。
また、大学3年以降、中途半端に行動的になっていたこともあり、「大学再受験」などというぶっ飛んだことを考え出します。
まちづくり関係の大学で、学び直そうと思い始めたのです。
(このことは、今まであまり人に話していませんでしたが)

結局それも上手くいかず、2014年4月、ニートとなって高岡に帰ってきたのでした。

もう、これについては、「反省」どころの騒ぎではない・・・(笑)



10年間の反省・・・長くなってしまったので「その①」

正直なところ、私がいつ「高岡を盛り上げたい!」と思い始めたのかは、よくわかりません。
ただ、祖父や父もそのような人間だったため、自然とそうなっていった、という感じでしょうか。

小学3年の時(2000年)には、夏休みの自由研究で高岡について調べ、大きな地図を作っていました。

そして、元々新幹線や道路などのインフラ整備に興味のあった私。
中学3年(2006年)の選択社会科にて、高岡駅の整備(橋上駅舎化など)や、北陸新幹線開業後の「飛越能の玄関口」としてのまちづくりについて学び、とても興味深く思っておりました。

でも、この頃はまだ、「高岡を盛り上げたい!」みたいな考えは、なかったと思います。



気がついたらそんな感じになっていったのは、たぶん高校2年の頃(2008年)。
きっかけが何だったかは、本当に覚えていません。
ただ、北陸新幹線や高岡駅の工事が始まろうとしていたこと、開町400年が目前に迫っていたことなどから、高岡のまちづくりに強く興味を持ち始めていました。
ケーブルテレビの開町400年関連の番組をよく見ていましたし、市長タウンミーティングに足を運んだこともありました。

これから迎える開町400年、高岡駅整備、北陸新幹線開業に、とてもワクワクしていた頃だったと思います。



そして迎えた2009年。
開町400年の動きは、常にケーブルテレビやネットでチェックし続けました。
自分が参加できるタイミングがないか、模索をしておりました。

ただ、今思えば残念だったのが、当時の私はいわゆる「陰キャラ」で自分に自信がなく、行動力もなかったことです。
また、今でこそ「まちづくり」の仲間が増えましたが、当時高校生の私には当然周りにそのような仲間はほとんどおらず。
だから、「人には言えない恥ずかしい趣味」みたいな感覚で、この思いを誰にも話せず、一人でこそこそネット上で騒ぐだけにとどまってしまいました。

この性格が長く尾を引いたと思います。

もし人望も厚く行動力のある「陽キャラ」の人が、私みたいな思いを持ってくれたら、と思いますが、もうこれは自己責任なので・・・(笑)
この時点でちゃんと自信を持って、行動をしていたら、変わっていただろうなと。大学時代然り。
それはいいとして。



高校3年になり、4月12日(日)に開町400年イベントのひとつ「高岡築城まつり 大石曳き」がありました。
高岡城の築城を再現するイベントで、桜馬場通りから高岡古城公園三の丸(市民体育館前)まで大きな石を運ぶという内容です。
団体参加だったので、「団体」を作れない私はただ見物に行っただけでしたが、当時通っていた高校がカナダ・サスカトゥーンとの交換留学事業をしていて、カナダの高校生が高岡に来ていたため、そのチームが参加しておりました。
ちなみに前年交換留学に参加していたため、「1年ずれていたら・・・」と思いながら見物しておりましたが・・・。
最終的には見物しているのが先生にバレ、途中から参加させてもらうことになりました(笑)
本当にありがたかったです。



この2009年は、高校もちょうど50周年を迎える年で、「まちと学校の節目の年を、一緒に盛り上げよう!」という空気が自然とできてくることに期待し、その時になったらぜひ参加しようと思っていたのですが・・・。
結局、学校として開町400年事業に参加していたのは、この大石曳きだけでした。
あとは、体育大会に利長くんが来てくれたことくらいかな。

「他力本願」はよくないなと、この時思いました。
なのにその後長らく「他力本願」の姿勢を続けるわけですが・・・(笑)
自分が「それくらい当然」と思っていることでも、実は自分だけしか思っていないことって、結構あります。
それを成し遂げたいなら、生徒会にでも入って学校を動かせば良かっただけのこと。
しかし、当時の自分には、とてもじゃないけどそのようなことはできませんでした。

特にメインイベントである9月13日(日)の「高岡開町まつり 前田利長公入城大行進」に、学校として参加する動きもなさそうだったので、
個人で応募することにしました。友人一人を誘って・・・。
陰キャラにとっては、これも大きな一歩だったと思います。




友人と自分は二人揃って「足軽役」としての応募でしたが、8月に事前説明会に参加してびっくり。
なんと自分は「前田利長公足軽高札役」、友人は「永姫公足軽高札役」になっておりました。
つまり、それぞれ前田利長公(俳優・勝野洋さん)、永姫公(俳優・浅野ゆう子さん
)の前で、「前田利長公」「永姫公」の高札を持って歩く役です。
確か入城大行進の応募資格は「高校生以上」だったと思いますが、高校生の参加も珍しかったのか、こんな大役に充てていただきました。

迎えた9月13日(日)のことは、今でも忘れられません。
高札をずっと持ちっぱなしで歩くのはとても疲れましたが(笑)、会場や沿道に約20万人が集まったとされ、多くの人で賑わっていたのは感動でした。

ちなみに翌9月14日(月)の北日本新聞一面に、この前田利長公入城大行進の様子が載りましたが、高札を持った私もしっかり写っておりました(笑)
写真には、この日特別巡行された御車山の勢揃いもバックに写っているため、現在「高岡御車山会館」に展示されております(笑)

以上のことから、開町400年は私にとって「原点」だと思っております。
あの時は行政も市民も関係なく、多くの人が「ジブンゴト」として、まちの節目を盛り上げていたと思います。
高岡市民が力を合わせたら、あれだけ大きなことができるんだと強く感動しましたし、この時に高岡市民でいられて本当に良かったなと思いました。




さて、その頃・・・入城大行進の事前説明会が終わった後くらいでしょうか。2009年8月。
高岡の情報発信などをするために、ブログを始めました。
「前身ブログ」と呼んでいるやつで、当時更新した記事のうち、個人的な投稿を除いたものをこちらのブログに移しました。

それも、2011年春頃までしか続きませんでしたが・・・。




また、高校2・3年頃は、学校帰りに寄り道をし、古城公園などの観光地や高岡駅前、新幹線や幹線道路の工事現場を見に行ったものです。
2009年8月、その様子を「ワンダラー」という詞に書いたのですが、9年後の2018年にあるシンガーソングライターさんに曲にしてもらい、現在はCD化までされました。






・・・そんなわけで、今一度人生を反省すべく、振り返りを始めましたが、
高校時代だけで長くなってしまった・・・。
せめて高校・大学くらいまで、と思っていましたが、今回はここまでにしたいと思います。

個人ブログなので、お許しください(笑)


高岡の歴史から学ぶこと

2010年2月8日、前身ブログにこんな記事を書きました。
(その後、当ブログに書き写しております)

奇跡・・・(前身ブログより)






当時17歳(18歳誕生日目前)の高校3年生が書いた稚拙な文章で恥ずかしい限りですが、
学校の図書室で高岡の歴史を学び、とても勉強になったという内容です。

この時読んでいたは、『高岡400年のあゆみ』(神保成伍氏著、文苑堂書店出版)という本で、高岡開町からの歴史がわかりやすく書かれております。
文苑堂書店でも販売されておりますので、興味のある方はぜひお買い求めください。




昨日のブログにも書いた通りですが、あれから10年も経って、何も行動していないというのは大いに反省すべきことだと思っております・・・。




さて、いつだったか忘れましたが、去年か一昨年くらい。
ひょんなことからこの本と再会を果たし、その後文苑堂書店で購入しました。
そして、何度も読み返し、最近もまた読み返しました。

やはり、歴史から学ぶべきことは多いなと思います。
というか、地域活性化に携わる以上、まずその地域の歴史をきちんと学ぶ必要があるでしょう。
このまちは一体どんなまちだったのか、どのように繁栄し、そしてどのように衰退して行ったのか。

かくいう私も、まだまだ高岡の歴史への理解は不十分だなと思っているので、これからも勉強していきたいです。
特に、「いつ頃から衰退が始まったのか」というポイントを、しっかり理解しなければいけないなと。




高岡の歴史について、高校生の時に抱いた感想は、一番最初のリンクにある通りですが・・・。
アラサーとなった今、改めて感じる「高岡」という町は、「経済都市」としての歴史が強かったのかなと。
言い換えると、「商人の町」といったところでしょうか。
また、「高岡商人」という言葉もあったと思います。

高岡城廃城後の前田利常公による「町人町」としての高岡再生に始まり、明治以降は北陸の経済都市として繁栄。
その勢いはとてもすごかったと思います。
1889(明治22)年に全国初の市(31市)のひとつとして市制施行したことも、その証明でしょう。

しかし、そんな高岡も地方衰退の波に飲まれていき・・・。
「経済都市」「商人の町」「町人町」としての勢いは、全くなくなってしまいました。
人口も減少し、特に中心市街地の衰退が激しいです(一方、郊外チェーン店舗は盛況です)。

極めつけの出来事となったのは、高岡市の財政難報道。
行政が今でも叩かれている状態ですが、果たして行政だけが悪いのでしょうか。
エビデンスはないのであくまで仮説(というか想像)ですが、私はこのような経済衰退の影響が一番大きいと思っております。

今後、高岡を再生させるには、やはり「経済都市」「町人町」としての勢いを取り戻すことだなと思います。
何も行動せずにただ行政を批判するだけでは再生できませんし、動くべきなのは行政よりも、むしろ民間・・・つまり「町人」でしょう。




最近そんなことを考えておりまして、私もようやく動き出す決意ができました。
このことに、学生時代にちゃんと気づいて、動くことができていれば・・・と思います。
「まちづくり」「地域活性化」とは何か、答えがないままとうとう10年もかかってしまいました。

10年かかってようやく出てきた「答え」。
次の10年は、その答えに基づいて取り組んでいきたいと思います。





相変わらず文章力がなく、まとまらない記事となりました・・・。